jump to navigation

映画フィルムの現像職人・今田長一

2003/11/4 | admin | trackback

「Nitrate Won’t Wait」というフィルム・アーキヴィストの合言葉を知ってか知らずか、「フィルムさんは待ってくれないからねえ」とおっしゃる今田長一さん。当会も日頃何かとお世話になっている東京は江古田の現像所・育映社にて、この道50年の現像職人にお話をうかがいました。

復元される前のフィルムを目にする機会でもない限り、上映プリントの完成に至るまでの苦労は容易に理解できるものではありません。現像所に持ちこまれる数々の古いフィルムを瀕死の状態から蘇らせてきた今田さんの仕事への情熱や、フィルムへの愛情の一端を、このインタビューを通してお伝えすることができればと思います。

1.現像職人の修業時代

これまでも今田さんにお話をうかがう機会はあったのですが、今回改めて詳しくお聞きしたいことがあります。まずは、現像の仕事をはじめられた頃のことを教えていただけますでしょうか。

今田長一さん(育映社にて)僕は島根の出身で、東京に出てきたのは昭和28年(1953年)、18歳の頃です。当時、田舎では働きに行くところがなかったんです。あっても米屋さんか床屋さんか、それくらいですかね。今でいう就職というのじゃなくて、小僧に出るわけです。本当は農林学校に行きたいと思って内緒で受験して、合格もしたのだけれど、家庭の事情であきらめました。当時は今のようにバイトしながら学校に行くなんてことはできなかったし、後になって奨学金制度があるとわかったれども、内緒にしていたせいで間に合わず、それで断念しました。16、7歳の頃は米俵を担いで米倉に積んだりだとか、そんな農協の仕事をしていましたね。

今の社長(※宮本和明氏)のおばあちゃんにあたる人(※育映社の創業者・宮本亀之亟夫人)が実は同じ田舎の出だったんです。ちょうどその頃、東京の嫁ぎ先で人が足りないから誰かよこしてくれないかと連絡が入ったのだけれども、最初、僕は長男だからダメだっていわれましてね。弟は父親が戦争から帰ってからの子供だから、まだ幼なかったですし。でも、映画はともかく、以前から”写真”というものには興味があったから、「やってみてえなあ」と思って頼み込んだんです。そしたら「3年だけ行って来い」ってことになりましてね。それで東京に出てきました。だから田舎の家族への仕送りはどうしても必要でした。そうしないと食べていけません。結局3年のつもりがずっといることになっちゃったんですけど。

以前、日大(※日本大学芸術学部映画学科)の講義に忍びこんで現像のことなど勉強されたとお聞きしたのですが、それはこの頃ですか。

いや。それはもう少し後ですね。実は、やっと20歳になった頃だったか、田舎で学校の先生をしていた方の息子さんと江古田で再会したんです。年は二つくらい上の先輩で、なんか似たようなのがいるなあ、ってじろじろみてたら、「あれえ長一さんかい?」って声を掛けられて、それ以来友達みたいになって。東京にいることは知っていたけれど、まさか江古田とはねえ。彼が日大の学生だったから日大に映画の学科があることを初めて教わったんですよ。

当時はうちもだんだん仕事が忙しくなってきた頃でね、早稲田や日大の学生さんたちの中には映画の撮影をしたり研究をしたりしている人たちがたくさんいらっしゃったんです。でも現像するにもヨコシネとか調布の東京現像とか……みんなでかいじゃないですか。学生さんはそんなにお金無いですからね。小さいラボはそこらじゅうにあったけれど、たまたま日大はうちから近いこともあって学生さんが顔を出すようになって、馴染みになりました。後にテレビ局に就職してえらくなっちゃった人で、中には現像をおぼえたい!なんていう人もいて随分仲良くなりましてね。「たまには俺も学校行ってみてえな」って冗談からはじまって、その内「俺と一緒なら大丈夫だから、来いや」なんて誘われて。「来いや」だからねえ。それで、こっそりもぐりこんで黙って静かに講義を聴いてました。先生方は分かっちゃいたのかもしれないけど、何も言われなかったですよ。とにかく覚えたいことだから、先生のおっしゃること全部逃さないようにしようってくらいに一生懸命聴きました。暇をみつけては仕事抜け出すような感じだったから、おやじ(※宮本亀之亟氏)には「野郎どこ行ってんだ。さぼって映画でもみに行ったのか」なんて怒られました。

講義の内容は、仕事にすぐに役に立ちましたか。

もちろん、もちろん。写真とはこういうもんだとか、ガンマ(※感光乳剤の階調の特性をあらわす数値)ってのはこういうもんだとかってことを随分勉強しましたね。第一あの当時は本がなかったんですよ。現像液の処方箋の本もなかった。唯一あったのは化学分析のとても手がつけられないような専門書。それは日大があったからか近所の古本屋に置いてありました。それも買ってはみましたけどね、でも、さっぱりわからない。ただ、まだ白黒の時代です。カラーのことは当時知らなかったですね。あるとこにはあったんでしょうけど、昭和30年代の半ばくらいはまだうちでは扱ってなかったです。カラーの難しさを知ったのは後に手塚治虫さんとの仕事で、テレビのアニメをカラーでも白黒でもきれいにみえるようにしたいっていうのを考えたときです。その時、カラーってのは大変だなってことがわかりました。

よく映画館にも行かれるのですか。

最近ではもうほとんどみなくなっちゃいましたけど、そうね、「江古田文化」ってのがあったから若い頃はよくみてましたね。今はパチンコ屋になってますけどね。あの映画館はいつ頃なくなったんだっけ……映画がダメになったなんていわれたのはいつ頃でしたっけね(※江古田文化は1970年代に廃館になったが、「文化通り」という名称は江古田に今も残る)。僕が技術学校を出たのが昭和31年だから……

学校にも通われたのですか。

夜学ですよ。テレビの技術学校(※現・日本電子専門学校)に2年間通わせてもらいました。あの頃、もうこれからはテレビの時代だなあと思ったんですよ。テレビの本放送がはじまったのが昭和28年だから。

実をいうと上京する前に、東京に来たら夜学に行かせてやるって聞いててさ。それを楽しみにしてたんだよ。学校行きたかったら。ところが3年たっても全然行かせてもらえない。おやじには直接言えないから田舎の親戚に手紙を書いて、怒られたりしたね。でもきっとおばあちゃんがおやじに「なんとかしてやりなよ」と言ってくれたんだろうね。ただ、高等学校の夜間部はとても無理だろうと思って……っていうのは、上京してすぐに早稲田の通信教育をはじめたんだよ。そりゃもう、やる気で上京したからね。でも一番仕事の忙しい頃だから時間がないの。深夜12時くらいまで仕事して、朝は6時に起きなきゃいけないし、ほとんど寝ないで勉強するわけだから、昼間眠くてね。おやじには怒られるし、結局辞めてしまったんです。それでも半年位は続けたかな。辞めてからずっと我慢してたんだけれど、どうしても学校のことは諦めきれなくて、それで技術学校に決めました。

今田さんは、機械の改造なんかはお手のものですものね。

元々好きだったからね。でも、いちおう卒業したけど、もう、ぎりぎりね。池袋に学校があったから、終わって9時半頃江古田に帰ってくると会社では皆まだ仕事してるんだよ。だから僕もまた仕事してさ。そんなことで翌日の予習なんてできないからね。追試を重ねて、酷かったね。テストも全部暗記よ。あと、先生の家に押しかけてってどんな問題が出るか聞き出したりね。先生もあきれてました。

日大の教授にも質問されたりとか?

しないしない。だってばれたら大変じゃない。今は偉くなっちゃったみたいだけど、八木先生(※八木信忠教授。現日本大学総合学術情報センター長で、今田さんが平成8年日本映画テレビ技術協会第28回増谷賞を受賞されたときのプレゼンターでもある)の講義を一番よく聴いてたね。でも直接話しをしたのはそれから随分あとになってからですよ。頼まれて修理とかで日大に出入りするようになってから、「八木先生の顔はとっくに知ってるよ」なんてことになったけどね。今では日大の映画学科は仲間みないなもんです。現像場に行ったり、機材や薬品を貸し借りしたり。先生たちとも顔なじみで、気軽に声を交わすようになりましたね。だから今はもう平気。「ちょっと借物よ」「あ、そう」なんて塩梅で。試験期間でもない限り顔パスだから、昔に較べたらラクなもんです。

Pages: 1 2

Archives

Feeds