山崎範子さんに聞く、谷根千・映画フィルムをめぐる25年
2008/6/19 | filmpres | trackback2.谷根千お宝映像の発見
フィルムに関しては私たちが知っているだけでも、鉄道省の技術者が撮影した『欧州旅行』(1931年/16ミリ/15分)、『わたくしたちの町 ―1955年の池之端七軒町』(パチリ会映画部/1955年/16ミリ/15分)、故・熊沢半蔵さんの手作りアニメーションなどのお宝映像が発見されています。
熊沢さんのお宅はね、浅草に今もある蛸松月菓子舗という美味しい和菓子屋さんの分家だったんです。団子坂にお店があって、谷根千の和菓子屋さん特集号の取材をきっかけに出会いました。お話をうかがう中で「実はアニメを撮ってんですよ」っておっしゃって、実際に映画を拝見したらこれがあんまり面白いので、何度も上映会を企画しました。当時、フィルムを貸し出すことはされなかったので、ご自身による出張上映でした。
熊沢さんは毎年、同好会の方たちとの8ミリフィルムの上映会を明治安田生命ホール(新宿)でやっていらしたんです。そこに参加していた素晴らしい作品を撮る方がいて、中根さんといいますが、その方の上映会も企画しました。
「谷根千」の取材をする中で、こんなのがありますよ、って教えていただいたのが『わたくしたちの町 ―1955年の池之端七軒町』です。早速、パチリ会のメンバーであった志田カメラさん(台東区池之端)のところにお話を聞きにいきました。『わたくしたちの町』は完成度が高くて、不忍通りふれあい館(文京区根津)で上映会をしようと決めると、都内版の新聞記者も興味を持ってくれました。ずいぶん話題になって、上映会には100名以上もお客さんが集まったんですよ。1998年のことです。
パチリ会というのは町会青年部の中の映画部会といったものです。ご近所同士の活動としては、異色ですごいと思いました。
はじめて《ホームムービーの日》に参加されたとき(会場:不忍通りふれあい館)の印象をお聞かせください。図書館司書のSさんのご紹介で、谷根千工房さんとFPSが出会うきっかけとなったイベントでもあります。
面白かったですよ。『わたくしたちの町』にしても、皆にみてもらおうという意図があって制作された映画ですよね。でもそうじゃない、まったくの個人的な映像でも面白いっていうのは不思議ですよね。2004年から毎年参加してみて、面白いものとそうでないものがはっきり分かれるなあということはわかってきました。よく知っているお宅のものであってもビデオなんか見せられると、例えば子どものピアノの発表会の映像とかって、あんまりみたいとは思わないでしょう?
うんざりしてしまうし、苦痛ですよね。
苦痛であるはずのことが苦痛でなくなる、その境界線がどこにあるのか……
わざわざ足を運んで他人の映像をみて、なぜ楽しいかっていうところは、うまく説明できないですね。
持ち主の方がその場にいらして何か一言おっしゃると、それだけでぐっと面白くなることがあります。
そうですね。2006年のHMD谷根千(根津教会)でみた『マサオの自転車』は、映像だけでも素晴らしいものだけれども、あの場に「マサオ君」がいたことによって面白さが倍増したでしょう。不思議でしたよね。
(『マサオの自転車』とは:昭和30年代の東京都北区、都内とはにわかに信じ難い程の長閑な風景の中、マサオ君が姉や友達らと自転車に乗る練習を繰り返し、ついに乗れるようになる瞬間までを父親が撮影したモノクロの8ミリフィルム)
私は子どもをビデオに撮ったり、写真を撮ったりすることがなくて、撮影はまずしないのだけれど、取材で聞き書きをさせていただいた後には、ご家族の古いアルバムを見せていただくことがあるんです。古い街並や、当時の衣装が珍しかったり、そういうの、とても面白いですよ。出征のときの家族写真などからも、その時の雰囲気がよく伝わってきます。つい最近も根津にあるオトメさんという中華料理店を取材させていただきました。オトメさん、実は以前「オトメパン」というパン屋さんだったのね。終戦後、近隣の学校給食はぜんぶオトメパンだったそうです。そのパン工場の写真をみせていただいたのだけれど、これが本当に面白い。ご家族のこと何も知らない人にとっても、その良さは変わらないと思います。
ほかにも何か印象に残る発見があれば教えてください。映像にまつわることで。
東京都都市計画課が企画した『20年後の東京』(1946年)ですね。この映画のフィルムを救済した宮崎(旧姓:渡辺)静江さんという都の職員の方に上映会でお話をうかがえたことが何より嬉しかったです。宮崎さんが映像にとくに興味をお持ちではない方であるにもかかわらず、フィルムを復元されたいうエピソードが、強く心に残っています。
もう一つ、台東区の根岸小学校の戦時中の運動会の8ミリフィルムもすごいんです。バトンを砲弾にした砲弾運び競争、落下傘ダンス…… 根岸のお医者さまの撮影でした。つい笑って見てしまうのだけれど、実にいたたまれない映像です。障害物競走も、子どもが皆、負傷した兵隊さんの格好をしてね、包帯を巻いたり松葉杖をついたりしながら網をくぐって。フィルムは傷むから貸し出したり上映したりはしないということで、拝見したのは一度きりです。
ほかには…… そうですね、ベンジャミン・ブロツキーというユダヤ人が1910年代に日本国内各地で撮影した『ビューティフル・ジャパン』というのもありました。浅野セメントの浅野総一郎も関わりがあるようです。2時間以上の映像が残っていて、今から15年くらい前、東京シネマ新社(東京都文京区白山)の岡田正子さんが調査される際に、お声を掛けてくださいました。何しろ古い映像なので、建築史家の藤島亥治郎さん(1899-2002)に同席していただいて、知っている場所があったらお教えしますということで拝見しました。私たちが地図上で確定できたのは不忍池の出初め式くらいで、結局はあまりお役には立てませんでしたけれど。
映画館のことについてもお尋ねしたいと思います。三百人劇場がなくなって、谷根千一帯にはついに映画館がなくなってしまいましたね。
三百人劇場は常設館ではなかったけれど、とても好きな映画館だったので、残念でした。常設館として一番後まで残っていたのは、文京区では後楽園シネマです。
映画特集の号(品切れの30号「映画と映画館」)に調べて書いた通り、動坂シネマというのもあったし、千駄木なのに名前はなぜか根津アカデミーというのもあったし。でもすべて昭和40年代に閉館しています。谷根千にコミュニティ・シネマみたいなものが一館くらいあってもいいのにね。
残念ながら30号はFPSの映画保存資料室にも所蔵がありません。
最後に、谷根千さんの本業である雑誌づくりについてお尋ねします。最近また、いかにも手作りといった風な雑誌が若い人のあいだで盛り上がっていますが、商売として考えると、紙媒体に憧れこそあれど踏み出せないケースも少なくないように思います。HPはあっても出版はできないという意味では、私たちもまさにそうです。
出版の流通ルートに問題があるんですね。谷根千もそうだけれど、個人で出しているミニコミの人たちにはあんなシステムはまったく必要ないんですよ。どうやって欲しい人に届けるかということになると、今はもうネットに頼るほかないでしょう。
一時期、この編集室を尋ねてくる方で一番多いのは雑誌を作りたい人たち、ということがありました。本当にたくさんの方から相談を受けました。沖縄からはボーダーインクの「ワンダー」創刊時と、まちなか研究所わくわくの「みーきゅるきゅる」と2件もあったんです。「ワンダー」はもうずいぶん前になりますね。「みーきゅるきゅる」は2004年夏創刊だから、その年のはじめか前年のことでした。創刊にあたってここまで足を運んでくださるっていうのもすごいけれど、数ヶ月後に「できました」って送ってきてくれて、それを今も出し続けているのだから、感心してしまいます。
今後、この地域に谷根千のような雑誌が生まれることはないかもしれませんが、何か構想がある人たちは、ここに来たらノウハウを教えていただけるんですね。
私と森は出版社勤めの経験がありました。私はフリーでも編集をやっていたし、森はフリーのライターでしたから、まったくの初心者だったわけではありません。とはいえ、制作の一工程を知っていたに過ぎないので、谷根千をはじめてから学んだことが多いです。確かに私たちは糊と定規があれば手作業でできます。でもそんなノウハウはもう古いんじゃないでしょうか。パソコンを駆使してつくっているわけではないので、印刷費も割高になっているような気がします。私たちが基本的な工程と思っている流れの中には、もはや必要ないものもあるのかもしれません。
何らかの地域活動をはじめるときに、家賃が安いというだけでできることって本当に多いと思います。ここも安いけれど、もっと安い映画保存協会の事務所に、わたしたちが入れば良かったねって、話をしていたんですよ。
ぜひシェアさせていただきたいです!これからもどうぞよろしくお願いします。
(2008年3月13日、谷根千工房にて 聞き手:石原香絵)
谷根千工房について、詳しくは谷根千ねっとをご覧下さい。
Pages: 1 2
