山崎範子さんに聞く、谷根千・映画フィルムをめぐる25年
2008-06-19 | filmpres | trackback1984年創刊の地域雑誌「谷中・根津・千駄木(略して谷根千)」を発行する谷根千工房が守り、残し、育む様々な東京下町の文化の中には、「映画フィルム」も含まれます。谷根千散歩の道すがら、どこからともなく映写機のカタカタという音が聞こえきたら、そこで映写技師をつとめるは編集者のお一人、山崎範子さんかもしれません。今回は映画フィルムにまつわる出来事を中心に山崎さんにお話をうかがいました。
1.トントン拍子で映写技師
FPS:「谷中・根津・千駄木」という地域雑誌は、山崎範子さん、森まゆみさん、仰木ひろみさんという3人の女性がはじめられたわけですが、森さんと仰木さんは地元の動坂ご出身ですよね。山崎さんも谷根千のご出身なのでしょうか。
私は埼玉県川口の出身です。結婚以来、谷根千に暮らして30年になります。この地で7回引っ越しました。
以前、山崎さんの息子さんが「うちの母はテレビ買う前に16ミリ映写機買っちゃいましたから」とおっしゃっていました。テレビがみたいときはお友だちの家でご覧になっていたとのこと、お若いのに、なんだか昭和を感じるようなエピソードだなと……
一番上の息子は昭和56年生まれだから平成の話なんですけれどね。テレビを持たないというのは私ではなく夫の方針でした。私はどちらでもいいかという程度です。夫は本の装丁を仕事にしていて、事務所をもっていませんでした。自宅が仕事場、食卓が仕事机を兼ねているような状況だったので、あるとみちゃって仕事にならないと思ったんじゃないかしら。決して嫌いというわけではなかったんです。旅先や実家などでは、かじりついてみていました。
谷根千工房の中でも山崎さんはとくに映画がお好きで、映像といえば山崎さんがご担当という印象があります。
うちにたまたまテレビがなかっただけですよ。谷根千の仕事の中では、映像に関することはほんの一部に過ぎません。
そんな中で、映写機を購入されたきっかけというのは何かあったのでしょうか。
息子が保育園に入ってすぐに催された映画会で16ミリフィルムが上映されて、はじめて映写機というものを身近で見ました。今思えば学校のようなところで映写機を使って上映をするなんて、あの頃が最期だったかもしれないですね。作品は虫プロの『やさしいライオン』(1970年)で、映画にも映写にも本当に感激してね、これはいいなあと思いました。
映写に感動されたんですか?
映写技師が呼ばれていたのでなくて、いつもの担任の保母さんが映写機を操作していました。子どもは前のほうで喰いいるようにスクリーンをみていて、保護者は後ろにいましたから、自ずと映写機に目がいって、その場で「映写って誰にもできるんですか?」と尋ねました。保母さんに文京区の映写機操作講習会を教えてもらい、すぐに受講しました。当時はまだ文京区も講習会を催していたんです。
4月に保育園の映画会、6月に講習会、その夏に父母会の夕涼み会を公園でやりましょうとなったときに、早速私が映写を担当して「くまのプーさん」を野外上映しました。順調にぱっぱっと進んだんです。雑誌「谷根千」の創刊(1984年)の翌年くらいです。楽しくて、あちこちで映写をするようになりました。
現在谷根千工房の事務所が1階に入っているこの団子坂マンションの3階に、当時の私の住まいがあったので、そこを会場にしてはじめたのが「D坂シネマ」です。これは金曜日の定期上映会でした。
毎週ですか!?
はい。今でこそこのマンションに子どもはほとんどいませんけれど、当時はフルタイムで働いている同世代のお母さんたちがたくさん暮らしていて、皆で食料品を共同購入していたんです。0~4歳くらいの子どもたちが10人近くいたかしら。私の家に子どもを集めて映画に引きつけておけば、その隙にお母さんたちはゆっくり品物を仕分けして、夕食の支度もできてしまう。この上映会は、すいぶん長く続いて、当時の雑誌でも取り上げられました。「D坂シネマ」の名称は今も残っています。芸工展(旧名:谷中芸工展)の期間中、老若男女向けに開催されています。
参加費はどうのように設定されていましたか?
フィルムは最初、文京区の視聴覚ライブラリー、そのうち都立日比谷図書館のライブラリーから借りるようになりました。家では当然無料ですが、野外や会場を借りるときは、子どもからでも50円か100円は入場料をとるんです。それは結局、お菓子代になるんですが、子どもたちはおこづかいを握りしめて、映画をみに来る。料金を払ったとなると、損しないように一所懸命みるでしょ。これは大人も子どもも同じです。だから、私は何にしても無料というのはあまり好きじゃないの。
子ども向けということは、アニメが中心ですか?
アニメといっても、テレビでやっているようなのとは全然違ってペースが実にゆったりしているんです。例えば『おやゆび姫』は、何秒もかけてゆーっくり振り向くの『くまの子ウーフ』のセリフだって「ぼくは、なにからできているのー?」なんてね、実にのーんびりしていて。春休み恒例の”ドラえもん”のような映画に子どもを連れて行くと、その展開の速さにびっくりしたものでした。
今度リバイバルされる『赤い風船』や『白い馬』なども、最初の頃に子どもたちとみた作品です。カナダやチェコで作られた作品も日比谷のライブラリーにはあって、とても人気でした。
たまには大人もみたいというので、それこそビールを持ち寄ってみる映画会も、時々やっていました。子どもが小学校にあがると、学童保育(千駄木育成室)に通うようになり、そこの先生が「育成室も上映会場にしてください」とおっしゃってくださって、新たに始まったのが月一回の「千駄木シネマ」です。こちらは3〜40人集まる映画会になりました。夜間に外出して友だちと会えるというのが子どもにとっては楽しかったみたいです。親が迎えに来て8時半か9時くらいに一緒に帰っていました。
この頃映画をみていた子どもたちは既に社会人ですが、当時のことはどう記憶されているのでしょうね。
覚えていてくれるかな?不思議とちいさければちいさいほど一生懸命みるんです。お姉ちゃんやお兄ちゃんと来た0歳児や1歳児が飽きずにみているというのは、親も不思議がっていましたけれども。後ろを振り向いて映写機からちらちら出ている光をじーっとみつめているような子もいましたね。
映写機は、はじめて1年くらいは文京区から借りていたんです。でも運ぶのが重くて重くて嫌になってしまってね。それで買うことにしました。文京区の方に紹介していただいた映写機の代理店に頼んで、中古を探してもらって。
当時おいくらだったかご記憶でしょうか。
おぼえていますよ。スクリーンなどとセットで24万円でした。今から22〜3年前でしょうか。定価は40万円以上のものだと聞きました。それが北辰の「SC-10」。回転アームによる自動装填のものでしたね。ずいぶん長いこと使いましたが、ゴムベルトが切れてしまったので下取りしていただいて、新たに中古を探してもらいました。それが現在も使っている「SC-210」です。ズームレンズは仕事仲間の仰木がプレゼントしてくれました。当時で2万したそうです。
映画保存協会にお貸ししているエルモの映写機は、月刊「金属」という雑誌を出している株式会社アグネ技術センター(東京都港区)が手放すときに譲っていただいたものです。
自前の映写機があると、搬入の手間が省けて助かりますよね。
でもね、当時は購入しても、車検みたいに年に一度は検定のために区役所まで持参しないといけなかったので、それはそれはたいへんでしたよ。フィルムを借りに行くだけでも一苦労なのですから、毎年、映写機の検定がある度に区長宛に公聴ハガキを書きました。本を最寄りの図書館で取り寄せて貸してくれるように、フィルムの受け渡しを図書館でできるようにしてください、たとえ日にちが余分にかかってもいいですから、と。
嘱託職員の原口修さん(財団法人文京アカデミー)が検定を担当されるようになってからは、出張してくださるようになって、大助かりです。当時は検定に持っていくと映写機がずらっと並んでいて、ずいぶん持っている人が多いんだなと思ったものです。でもほとんど学校や児童館など施設のものだったんですね。出張検定が可能になったのは、持っている人があっという間に減ってしまったという実情もあるのかもしれません。
今でこそ私たち映画保存協会の活動は、谷根千地域だからこそできるという実感がありますが、谷根千工房さんが地域雑誌をはじめる前から、そういった活動に取り組みやすい雰囲気があったのでしょうか。
当時の東京にはほかにも似たような環境があったんじゃないかしら。同世代が集まっている団地とか……
でもそうですね、この辺りは働く女性にとってはとても暮らしやすいところでしたよ。どこで働いているにしても通勤がラクで、保育園や小学校、図書館に公園も近所にあるし、ですから気持ちよく暮らせるんです。当時は子どもを外に出して危ないなんてこと、一切考えませんでしたね。家の中が狭くてもまったく問題ありませんでした。当時住んでいた部屋は10坪もなかったんですよ。全体で30平米ちょっとの1DKに5人暮らしでした。
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