MoMA アイリーン・バウザーに聞く「専門職としてのフィルム・アーカイヴ活動」
2006/9/10 | admin | trackbackフィルム収集の方針と方法
RM:あなたが所蔵作品をどうやって増やしていったのかに興味があるのですが、まずお聞きしたいのは、なぜMoMAフィルム・ライブラリーは機材の収集をしなかったのか、という点です。
EB:私がMoMAに機材の収集を訴えることは過去に一度もありませんでした。なぜなら、ポリシーに反するからです。MoMAは技術系の博物館ではありません。しかしもちろん、図らずも入手することになったいくつかの宝物は手放しませんでした。ビリー・ビッツァー*1がバイオグラフ社のフィルムとともに持ち込んだプリンターが手に入ったのはラッキーでした。恐らく彼は初期の焼付けをそのプリンターでおこなったのでしょう。彼が前時代の人物であることが残念でなりません。同時代に身近にいられたらどんなに素晴らしかったでしょう。技術は常に進化するからこそ、機材は重要です。今日利用されているビデオやデジタル・ディスクも、恐らく十年も経てば複製や再生は難しくなるでしょう。だからこそアーカイヴは機材を収集する必要があるわけです。しかしそれはMoMAの目指す理念からは程遠いものでした。
RM:あなたがフィルム収集の責任者であったときに、何らかの収集方針はありましたか?
EB:ありました。MoMAの他の部門と同様に、もっとも質の高い作品を収集すべきだと考えていました。最高の作品を集めるという方針です。しかし、映画保存への理解が深まり、とりわけFIAFと関わるようになってからは、我々が選り好みなんかしていたら、フィルムは絶滅してしまうということに気づいたのです。他に誰も集めていないのですから。したがって、手当たりしだいにすべてのフィルムを収集することが我々の責務であると考えるようになりました。心の中では、パーマネント・コレクションとスタディ・コレクションという、それぞれ別のアイデンティティをもたせることによってこの問題を整理しました。その線引きについてはさほど気にしませんでした。実際、それは文書化された方針でもなく、カタログ・カードに記される項目でもなく、単にフィルム救済を正当化するための哲学的なコンセプトに過ぎなかったのです。芸術的にはそれほどの域に達していないフィルムでも、保存すべき理由は余あるわけですから、いかなるアーカイヴにも手に入るすべてのフィルムを集めて欲しいと思います。そうしなければフィルムは死滅してしまいます。我々はフィルムを皆殺しにするわけにはいきません。MoMAの誰に対してもこの方針の是非を問うたことはありません。私が独断によって貫いてきたポリシーです。
当時、議会図書館*2はまだ積極的な収集をおこなっていませんでした。ジェームズ・カードの個人的なコレクションに端を発するジョージ・イーストマン・ハウス*3も1940年代当時は小規模なアーカイヴに過ぎませんでした。カリフォルニアではUCLAがアーカイヴを設立したばかりで*4、当時のスタッフは保存について何の知識もなく、たいした作業はおこなわれず、ただ学生の研究材料としてフィルムを集めていただけで、本格的なアーカイヴになったのはボブ・ローゼン*5が登場してからです。UCLAは後にFIAFにも参加し、FIAFから多大な影響を受けました。そのような出来事が世界中で起こるのを私は目撃してきました。アーカイヴのなすべき仕事が徐々に浸透していったのです。とりわけ、他のアーカイヴからの助けは大きかったことでしょう。なぜならほとんどのアーカイヴはUCLAのケースのように、元々は人々の熱意によって収集活動をおこなっていたに過ぎないのですから。
RM:フィルムを収集する際に、個人的な趣味は反映されましたか?
EB:ある程度は反映したと思います。わざわざ探索して入手した作品もありましたから。ドナルド・リチー*6がいたころ、所蔵するべきなのにMoMAの所蔵リストにない作品をリストアップしたことがあります。所蔵品の抜け落ちた部分を補填するために奔走したので、そのほとんどが現在では所蔵品に含まれています。テッド・ターナーのコレクション*7のように膨大な規模の寄贈を受けるようになったのは、私のキャリアの終わり頃からです。理由は前にも述べたように、ナイトレート廃棄のためのお金が出せるような人がいなくなったからです。まさか再びナイトレートが必要になるなんて思わなかったのでしょう。私には、絶対にまた必要になるであろうことはわかっていましたから、契約書に「無料で複製できるのは1度まで」と記し、それが後に功を奏しました。2度目からは新しいファイン・グレイン・マスターをはじめ、必要となる素材すべてに費用を請求できたのです。寄贈者はそんなことには構わず契約書にサインしました。商業ベースの世界にいる人たちは、先見の明がないのです。まさか原版がまた必要になるとは予想もせず、ビデオに変換すればそれで終わりだと思ったのでしょう。しかし新しいメディアは数年ごとに消えてはあらわれ、彼らは、その都度戻ってきては原版を使用することになりました。
MoMAのコレクションを構築する上で私が果たした、おそらくもっとも大きな役割は、フィルムの交換作業であったと思います。多くの失われたアメリカ映画をヨーロッパから取り戻しました。ここでもFIAFが重要な役割を果たしてくれました。というのも交換の多くは個人的な付き合いから生まれたものだからです。フィルムの話をして、相手がどんなフィルムを持っていて、何を求めているのかを知ることで、真の宝物が収蔵品に加わるのです。FIAF総会で過ごした時間がなければ、今日のような頻繁なフィルムの交換は成立しなかったと思いますし、交換が成立しなければ、コレクションを伸ばすチャンスを失うのも同然です。個人的なつながりというのは本当に大切なのです。
RM:あなたはサイレント・コメディの収集に積極的でしたね。
EB:おっしゃる通り、サイレント・コメディにも情熱を傾けました。プラハのアーカイヴ*8も収集にとても積極的でしたから、かなりの数のフィルムを交換しましたし、現在でも交換作業は続いています。サイレント・コメディは我々が呼ぶところのいわゆる「オーファン・フィルム」、つまり著作権者不明のフィルムなわけです。たいていのフィルムは持ち主のところを転々としています。その人気ゆえ、世界中で発見されますが、海外で発見されるプリントというのはたいてい短縮版です。トップタイトルがなく、外国語版のタイトルだけが残されていることもあります。なんとかオリジナルのタイトルに戻そうと試みますが、いくら翻訳してみたところで、それは本物ではない。本当の意味でオリジナルに戻すことはできないのです。
MoMAはロンドン、オーストラリア、カナダからも同様にフィルムを入手しました。アメリカ映画を取り戻すために、交換はとても有効な方法です。海外からフィルムを入手したという点で、私もMoMAコレクションに貢献できたのではないかと自負しています。
- ビリー・ピッツァー:撮影監督。G. W. グリフィスとの仕事で名高い。ビッツァ—は1930年代の終わりに短期間ではあるがMoMAフィルム・ライブラリーに関わり、バイオグラフ社の作品の識別と復元のコンサルタントを務めた。 [back]
- [訳]アメリカ議会図書館映画部門(現・映画放送録音物部門)フィルム・アーカイヴ。設立は1942年。 [back]
- [訳]ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館フィルム部門。設立は1947年。 [back]
- [訳]UCLAフィルム&TVアーカイヴ。設立は1965年。 [back]
- ロバート・ローゼン:1975-1998年:UCLAフィルム&TVアーカイヴ ディレクター 1991年:フィルム&TV部門 代表 1998年-: 演劇/フィルム/TV学部学部長 [back]
- ドナルド・リチー 1971年:MoMA客員研究員 1971-1973年:MoMAフィルム部門キュレーター [back]
- [訳]ターナー・エンターテイメントは1989年と1992年にナイトレートをフィルム部門に寄託している。 [back]
- [訳]チェコスロバキア・フィルム・アーカイヴ。設立は1943年。 [back]
