MoMA アイリーン・バウザーに聞く「専門職としてのフィルム・アーカイヴ活動」
2006/9/10 | admin | trackbackアーカイヴの機能とアーキヴィストの使命
RM:保存手段についてご説明いただけますか?それから、アーカイヴの機能に資金不足がどのように影響したのでしょうか。フィルム・ライブラリーのネガティヴな歴史をことさらに取り上げたいわけではないのですが、バリーとディック・グリフィスはラングロワがらみの後味悪いエピソードを少なからず経験していますね。グロリア・スワンソンについても耳を疑うような事件があったそうですが。
EB:アーカイヴが唯一無二の貴重なオリジナル・プリントを誤って外部に貸し出すことがあるとすれば、MoMAの場合、『結婚行進曲』(1928年)のハネムーンの場面がまさにそのようなケースで、結果的にこのフィルムはその後、行方知れずになっています。ディックの人が良すぎたのがいけないのです。このフィルムをパリからリクエストしたのは、作品をすべて元通りにすることを望んでいたエリッヒ・フォン・シュトロハイム本人でした。監督の依頼を断るというのは、なかなかどうして難しいことで、MoMAはその唯一現存するオリジナル素材を、複製もとることなくパリに送ってしまったのです。私に限っていえば、そのような間違いは一度も犯したことはありません。誓ってもいいですが、複製をとる前にオリジナルを手放すなどということは、私のキャリアを通して一度もありませんでした。このハネムーンの場面はユニバーサルからMoMAに寄贈されたもので、残りの場面はラングロワが所有していました。ラングロワとミラノのアーカイヴ*1とのつながりを考えると、一時的にミラノにすべてのフィルムが届けられたことは間違いありません。しかし結果として、ラングロワの起こした火事騒ぎのいずれかで、このフィルムは焼失してしまったといわれています。ラングロワを偉大なるアーキヴィストとして記憶する人がいることは私も知っています。確かに偉大なコレクターであり、プログラマーであり、そして古典映画やアーカイヴを宣伝するための広告塔の役割は十分果たした人物でしょう。しかし、彼はアーキヴィストではありませんでした。ラングロワのとった方針のおかげで、永久に失われてしまった作品が数限りなくあります。彼はフィルムをとてもいいかげんに保管していました。お世辞にも正しい保管方法とはいえないものでしたし、その上、何度も火災を起こしています。しかも当時はまだ、アーカイヴ同士がオリジナルをシェアしている時代でした。ですから私はラングロワが偉大なアーキヴィストであるとは思いません。
グロリア・スワンソンの件はディック・グリフィスからだいたいのことを教わりました。かつてMoMAはスワンソンのフィルム・コレクションを保管していました。中には劣化の兆候をみせているホームムービーもあったそうです。ディックはスワンソンに劣化のことを伝えてはいましたが、二人ともすっかりそんなことを忘れてしまったのです。しばらくしてMoMAを訪れたスワンソンが、彼女の赤ちゃんの映像が見当たらないことに気づいて蒼然としました。怒り心頭、スワンソンはすべてのフィルムを持ち帰ってしまったのです。結局、彼女のコレクションはジョージ・イーストマン・ハウスに寄贈されることになりました。これはまあ、損失というわけではありません。コレクションは自宅に封印されてしまったのではなく、別のアーカイヴに預けられたわけですから。
RM:グリフィスはスワンソンが保存に必要な資金を提供してくれることを期待して、ホームムービーの劣化について説明したとは思うのですが、それを彼女が無視したと?
EB:当時の資金不足は深刻でした。『国民の創生』や『イントレランス』がようやく復元されようとしている時期に、そう簡単に赤ちゃんを撮影したようなホームムービーに目を向けるわけにはいかなかったのでしょう。いくら残したいという思いがあっても。
RM:あなたが就職された当時、フィルム部門のフィルム収集はどれほど活発におこなわれていましたか?
EB:毎年新たな収蔵作品がありました。ただ数的にそれほど多くはなく、というのも、購入資金というものがなかったのです。しばらくして1970年代入り、ウィラードがフィルム部門のトップになって以降は、「今年はフィルムに使えるお金がこんなにあるよ」と言える年もありました。彼は資金繰りに長けていたのです。決められた購入資金というのが用意されていたわけではありませんが、たいていディレクターがどうにか資金を調達してきたものです。独立系の映画の購入には助成金を充てました。お金を獲得する道は様々あったので、とにかく片端から挑戦したものです。
1980年になるまで、大手映画会社からナイトレートの寄贈を受けるということはありませんでした。それまでは条件がなかなか折り合わなかったのです。誰の失敗というわけでもありません。状況が一変したのは、テレビ局があらゆる映画作品のビデオを制作したいと言い出したときです。ビデオ化によって映画会社はナイトレートをお払い箱にしようとしていましたが、環境問題の高まりで廃棄にもそれなりにお金がかかり、処分も困難になっていきました。そのような時代の移り変わりによって、ついに大手も、アーカイヴにナイトレートの面倒をみてもらおうと考えるようになったわけです。
RM:フィルムに関わる中で、いつ頃ご自身の使命たるものを確信されたのでしょうか?MoMAにおいてアーキヴィストとしてのキャリアを築けるであろうと意識されたのはいつ頃でしたか?
EB:国際フィルム・アーカイヴ連盟(FIAF)に参加してからです。私は1960年代半ばにFIAFの実行委員に選出され、引退するまでその任務を続けました。MoMA以外のアーカイヴとの出会いが、私に職業としてのアーカイヴ活動のセンスを与えてくれたのだと思います。ご存知のように、私の時代になるまでは、ほとんどのアーキヴィストがまだアマチュアの域にありました。教育環境も整っていなかったし、たいていの人は、映画ファンではあっても、技術的な知識を備えてこの分野に入ってきたわけではなく、ただフィルムへの愛から辿り着いたに過ぎませんでした。FIAFは共通の目的に向うアーカイヴの組織です。この組織を通して、フィルム・アーカイヴ活動はプロの仕事であるという認識が広まり、さらに、この仕事はもっと本格的に遂行されるべきものだと皆が理解しはじめたわけです。本当の意味での映画保存、本格的なカタロギングやドキュメンテーションの芽生え。これがはじまったのがまさに、私がはじめて FIAF総会に参加した年、1968年のロンドンにおいてでした。総会の初日に、カタロギングとドキュメンテーションの委員会の設立が発表され、参加者たちから私がそのメンバーにどうかとの声があがりました。私は厳密には会議に参加したとはいえません。なぜならすぐに別室に移動して仕事をはじめたからです。保存委員会はその1、2年前に生まれたばかりでした。当時は、保存、カタロギング、ドキュメンテーションという仕事が本格化する胎動期で、アーカイヴ間で活動内容を把握し、組織を整え、皆が等しく従うことのできるルールが編まれていた時期でした。ピリオディカル・インデクシング・プロジェクト*2もその年に生まれました。FIAFを通して、世界中の国々で似たような作業が展開されていることに気付いた我々は、そういった共通項を持つ作業において協力関係を築き、それぞれのアーカイヴの手間を省くことにしたのです。FAIFによって私の仕事はがらりと様相を変えました。
RM:1960年代にはじまったFIAFのエンブリョ・プロジェクト、つまり、国際的なフィルム・アーカイヴの所蔵カタログを作ろうという試みについて、何かご意見はありますか?
EB:FIAFには所蔵作品をきちんとカタログ化しようという動きが常にありました。そして、ほかのアーカイヴがどのような作品を所蔵しているのか誰もが知ることができるように、データをアーカイヴ間で共有しようという動きもありました。映画を本気で保存するなら、このようなカタログは実用性の面からも不可欠ですし、また、調査や学術研究の意味でも有用です。しかし当然ながら、これに反対する要素も多々あり、実に長く困難な論争を、おもにジャック・ルドゥー*3が巻き起こしました。この議論には私も首をつっこんできましたが、共通カタログの構築に向けてアーキヴィストを説得するのは並大抵のことではありませんでした。問題はつまるところ、著作権所有者のエゴにあるのです。意地の悪い権利者がアーカイヴからフィルムを持ち去ってしまうのではないか、という脅威がありましたから、アーカイヴに協力を要請するのには本当に時間がかかりました。アイリス・バリーはカタログの公開に賛成していましたし、私自身、誰がフィルムを奪おうとしても、アーカイヴ側がそれを断固阻止できるようなやり方でアーカイヴを運営していました。しかし、ディック・グリフィスはそのようには考えていませんでした。彼が責任者の地位にあったとき、MGMがMoMAからフィルムを奪還していきましたが、そのときディックは「MoMAのフィルムに手を出すな」とは言いませんでした。おそらくMGMがその件を裁判沙汰にすることを恐れたのでしょう。裁判はやっかいです。私にはアーカイヴの恐怖心も秘密主義もよく理解できます。当時はそのような空気が取り巻いていたのです。実際にそこにある恐怖だったわけですから、決して取り越し苦労だったとは思いません。いくら時代が変わって大手映画会社がアーカイヴを信頼するようになってきても、未だにその変化が本物であるとは確信できないアーカイヴもあるでしょう。疑心暗鬼のアーカイヴは、レイモンド・ロハウアー*4が権利をすべて買い取ってフィルムの返還を要求するのではないか、というようなことを、ひたすら心配するわけです。MoMAは何があろうと「断固お断り」の姿勢を貫くでしょうが、世の中には訴えられることを恐れるアーカイヴもあります。弁護士を雇うお金もありません。それでも、外部からの攻撃に「ノー」を貫く姿勢を私は学び取りました。失敗なんて有り得ません。私にできるのですから他のアーキヴィストにもできるはずです。アーカイヴ側の恐怖心は未だ消えずに残っていますが、以前に比べたらずっと薄らいでいるはずです。
EB:私の時代の話をすれば、フィルムの引き渡しを強要され、その先フィルムが適切に保存されない可能性が認められれば、まず複製を取ってそれを手元に残すようにします。複製を取る法的権利がないとすれば、倫理を持ち出します。倫理的な責任を果たすことこそ私の役目です。フィルムを消失の危険から守るのが私の任務なのです。どうして世界にたった1本の、35mmオリジナル・フィルムをみすみす手放すことができましょう!劣化を言い訳にして、未来に向けてフィルムを倉庫に閉じ込めてしまうことだってできなくはありません。実際私はそのようなことをこれまでにもやってきましたし、そのようなことを学ぶのに十分過ぎる年月を生きてきました。事物は常に変化するのです。アーカイヴのほうが著作権者より寿命が長いのは揺るぎない事実です。アーカイヴ活動は息の長いものですから、我々アーキヴィストは忍耐力を身に付けなくてはなりません。
- [訳]チネテカ・イタリアーナのこと。設立は1947年。 [back]
- [訳]The International Index to Film Periodicals 世界中のフィルム・アーカイヴにおけるドキュメンテーションの取り組みを総括する目的で1968年のFIAF総会(ロンドン)からはじまった。最初の年鑑は1973年に発行され、現在ではCD-ROMで入手できる。 [back]
- ジャック・ルドゥー(1922-1988):1947-1988年:ベルギー王立シネマテーク ディレクター 1961-1977年:FIAF事務局長 [back]
- レイモンド・ロハウアー(1924-1987):フィルム配給業者、プロデューサーにして独立系のアーキヴィストでもある。アーカイヴに長く所蔵されている無声映画に対して著作権を主張することで悪名高かった人物。 [back]
