MoMA アイリーン・バウザーに聞く「専門職としてのフィルム・アーカイヴ活動」
2006/9/10 | admin | trackback美術史研究から映画保存へ
ロナルド・S・マリオッツィ(RM):MoMAに就職した理由は、映画への興味からではないとお聞きしましたが。
アイリーン・バウザー(EB): 映画について特別な知識や経験があったわけではありません。青春時代は大恐慌の真っただ中で、映画館に通うような習慣もありませんでした。私は郊外に暮らす大家族の出身です。映画に行くとなったら家族総出ですから、そんなことはせいぜい年に一度くらいでした。例外は、まだ幼かった頃、夏休みに公園で開催された無料上映会でしょうか。記憶にあるのはジャンク寸前のB級ウエスタン、思い出すのは馬やカウボーイのことばかりです。
RM:リチャード・グリフィスがあなたを採用するにあたって、映画に関する専門性をまるで求めなかったということは、当時まだ映画の専門家といえる人材がほとんどいなかったということでしょうか。
EB:ええ、それは間違いありません。大学に映画の学部はなく、ましてや映画に関する講義を受けて単位を取るなんてことは考えられない時代でしたから、人材は他分野から集まってきました。もちろん、ほとんどが大の映画ファンであったわけですが。ディック・グリフィスの場合、大学を卒業してすぐにMoMAに就職しています。学生時代から既にアイリス・バリーと連絡を取っていて、ハヴァーフォードでMoMAの最初期の上映プログラムを組んでいたほどで、それをきっかけにバリーのアシスタントになったのです。
RM:初めてMoMAに就職した当時の同僚というと、どのような面々になりますか?職場で映画のエキスパートとの出会いなどはありましたか?
EB:この頃出会った人といえば何といっても『メキシコ万歳』*1のプロジェクトに携わっていたジェイ・レイダ*2でしょう。チャールズ・ロートン*3が『狩人の夜』の製作準備のために映画をみにきたり、ギッシュ姉妹*4に加えて、ハーマン・ウェインバーグ*5も顔を出したりしました。リチャード・グリフィスのアシスタントをしていたジョン・アダムスを通して出会った映画人も大勢います。それから、マルガレータ・アケルマーク*6の部下で、フィルムの貸出しを担当していたクリス・ビショップ*7ですね。彼は詩人のジョン・ピール・ビショップの息子で、ジョン・アダムスの親友でもありました。そんな仲間が集まって、我々が今まさに取り組むべきは所蔵フィルムを知り尽くすことである、と意気投合したのです。まずは本格的なカタログの作成に取りかかるつもりでした。私が就職した当時は3×5インチほどの小さなカードに映画題名、監督名、数名の出演者名などを記入したものがあるばかりで、フィルム保管庫でおこなうインベントリーのシステムこそ確立されていましたが、本格的なカタログはまだ存在していなかったのです。そこで、すべての所蔵フィルムを鑑賞するという計画を実行に移すわけですが、さて、どのようにしてそんな時間を捻出したと思います?実は、勤務時間外にみてしまおうと企んで、毎週土曜日の朝を選んだのです。これはボランティア活動でしたし、土曜日に映写技師を呼ぶわけですから、グループを結成して、映写技師のギャラを賄えるだけの小額の会費も徴収しました。この上映会を「土曜の朝のフィルム・シリーズ」と命名し、会場にはMoMAの大劇場ではなく、4階の小さな試写室を利用しました。
RM:そのグループに誰が参加していたかご記憶ですか?
EB:ええ。後にとても有名になった人もいます。その当時はまったく無名だったエドワード・ゴレイ*8やスーザン・ソンタグ*9もメンバーでした。スーザン・ソンタグは小さな息子を連れていました。おとなしくさせてはいましたが、あまりに幼い子だったので疎ましく思うメンバーもいたようです。ほかのメンバーも後に映画の世界で働くようになった人ばかりです。あなたがチャーリー・ターナーについて書いた記事*10)に名前が出てくるので、あなたはすべてのメンバーをご存知なのではないかしら。
RM:メンバーとは、どのように知り合ったのですか? ニューヨークには映画ファンののコミュニティーがあったのでしょうか。
EB:毎日のようにMoMAの劇場の前列のほうに陣取っている熱狂的な映画ファンというのは、いつの時代もいるものです。後に定着した呼び名ですが、クリス・ビショップは彼らを「古典映画の友」「フーフズ」と名付けました。私たちはその呼び名を冠したバッジも作ったほどです。次第にマスコミのあいだでも使われるようになって、その呼び名が世間に定着していきました。「土曜の朝のフィルム・シリーズ」は1955年から65年くらいまで、ほぼ10年続き、そのあいだに所蔵フィルムの中から上映可能なすべての作品を鑑賞しました。今日とくらべれば、さほど大規模なコレクションではなかったのですが、こうしてMoMAのコレクションのなんたるかを目の当たりにしたことは、後の私にとってかけがえのない蓄えとなりました。しかしカタログ化の仕事はというと、そう簡単にはいきませんでした。まずは必要な情報すべてを書き込むために大きなカードを採択することからはじめましたが、カタロギングという作業は決して完結することがなく、常に変化していくものです。フレキシビリティの高いシステムの必要性を実感した私が思いついたのは、情報を3枚のカードに分けるシステムでした。クレジットを1枚に、解説をもう1枚に、そして最後の1枚に技術情報を記したのです。コンピューターがまだなかった当時、このシステムはちょっとした発明でした。
- 『メキシコ万歳』(1932)監督:セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテインwww.quevivamexico.comを参照。 [back]
- ジェイ・レイダ (1910-1988) :映画史家、作家、教育者。1936-1940年にMoMAに勤務。1950年代初頭から、彼はMoMAの上映プログラムのために「エイゼンシュタインのメキシコ映画:Episodes for Study(1955)」を制作した。 [back]
- チャールズ・ロートン (1899-1962) :俳優、監督。アイリス・バリーと個人的に親しかった。 [back]
- リリアン・ギッシュ (1895-1993)/ドロシー・ギッシュ (1898-1968) :フィルム部門のサポーターであった。 [back]
- ハーマン・ウェインバーグ (1908-1983) 映画史家、翻訳者、タイトル・ライター、映像作家。 [back]
- マルガレータ・アケルマーク:(1913-1983) フィルムの巡回プログラムが開始された40年代から60年代半ばまでの責任者。60年代半ばにフィルム・ライブラリーのアソシエート・ディレクターとなり、1978年の引退までそのポストを任された。 [back]
- クリストファー・ビショップ、ジョン・アダムス:50年代中期から後期にかけて、MoMAにて事務系の様々な職についた。 [back]
- エドワード・ゴレイ(1925-2000): 芸術家。作家。デザイナー。彼の著作には無声映画、中でもD. W.グリフィスに触発されて生まれたものが多い。 [back]
- スーザン・ソンタグ(1933-2004): 作家、戯曲家、映像作家。息子のデイヴィットは1952年生まれ。 [back]
- [訳] “Witnessing the Development of Independent Film Culture in New York: An Interview with Charles Turner” Film History 12 no.1 (2000 [back]
